有馬のセミナリヨって何?

世界遺産候補を知ろう〔有馬のセミナリヨ編〕

有馬のセミナリヨ跡地標柱

伊東マンショもこの学校で学んだ

 

 セミナリヨとは16世紀にヨーロッパの教育制度を導入して設置したキリシタンの中等教育機関です。イエズス会の巡察師ヴァリニャーノはミヤコ(京都)、豊後、シモ(豊後を除く九州)の3つの布教区に、信徒のリーダー養成を目的として、各々一般子弟を対象にセミナリヨとコレジョを開設する事とし、日本に本格的な教育制度が導入されました。

 1580年4月、有馬晴信の援助を受けて日本で初めて有馬のセミナリヨが有馬領日野江城下に設置され22人の入学生でスタートしました。その後、安土のセミナリヨは伴天連追放令や政情不安のため、有馬のセミナリヨと合併することとなりました。セミナリヨの教育課程は予科1年、本科3学級の全寮制でした。1学級の課程は完全にその学級のレベルをマスターして進級したため、セミナリヨの課程を終了するのに平均6年以上はかかっています。

 セミナリヨの教育理念はキリスト教的ヒューマニズムによる人間教育でした。具体的な教育内容は語学と文学が重んじられました。特にラテン語はヒューマニストの理想の言葉と考えられていたため、日本のセミナリヨでもラテン語教育が重んじられました。さらにラテン語と共に歴史、文科、思想、人文地理等をあわせて学ぶ方法が取り入れられていました。日本のセミナリヨの特色は日本文学の 1 年課程が置かれて日本語教育が行われていたことです。ヨーロッパでも自国語の教育がまだ行われていなかった時代にあって「太平記」などの古典文学を教えたのは特筆されるものでした。また、情操教育として音楽とスポーツが重視され、 1 日に 1 時間の楽器の練習や週 1 度の屋外の遠足が義務づけられているのも興味深いものがあります。

 有馬のセミナリヨは1580年の創設期、1587年に有馬晴信が新しい土地を与えてセミナリヨの敷地が広くなった第2期、1587年の秀吉の伴天連追放令の発布のためセミナリヨが転々と移した後、1601年から1612年まで日野江城下に置かれた第3期と日野江城下には3回置かれました。1601年に置かれた3回目の場所には、有馬晴信が妻を迎えるために建てた新居郡がそのままセミナリヨとなり、同敷地内には当時の日本で最も贅を尽くしたと報告された教会、有馬地方のイエズス会修道院本部等が置かれていました。

 400年もの昔、100人を超えるセミナリヨの生徒たちが北有馬町で学んでいたのです。有馬のセミナリヨからは天正遣欧少年使節を始め、木村セバスチャン、西ロマーノ、ペトロ峡部カスイなどを輩出しています。セミナリヨの優れた教育理念とカリキュラムおよび教育成果は、日本の文学史、教育史上、銘記される事実です。

有馬のセミナリヨの卒業生
天正遣欧少年使節
ペトロ・岐部・カスイ

 


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