キリシタン大名有馬氏の居城「日野江城跡」

世界遺産候補を知ろう

〔国指定史跡 日野江城跡編〕

日野江城二の丸跡と本丸跡を望む

少年使節もこのお城の城下町にいた

二の丸跡の乱れ積み城壁

 

日野江城跡大手口

本丸跡から二の丸跡を望む

 

 
 

 日野江城跡は 1200 年代前期から 1614 年まで戦国大名有馬氏の居城でした。本丸のやや下がった東側に二の丸、反対側の北西部に三の丸を配置した連郭式の城郭でした。有馬氏は 1550 年代には島原半島から肥前国一帯 21 万石を領有し、現在の長崎県、佐賀県に十一城(といちじょう)と呼ばれる支城の連絡網を張り巡らせるなど、肥前国の中心地でした。

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 キリシタン大名となった有馬晴信の時代には、 1580 年、ヨーロッパとの交流によりイエズス会の中等教育機関「有馬のセミナリヨ」が有馬の城下町に創立されました。また有馬のセミナリヨの卒業生で、日本初のヨーロッパ派遣団「天正遣欧少年使節」が 8 年半を要して帰国した際には、日野江城で 8 日間に渡る報告会が催されたのです。 4 少年が帰国した際には完成したばかりの屋敷に案内され、「大小の部屋はすべて黄金の品や典雅で華麗な絵画で飾られていた。この屋敷は、最近有馬殿の手で建てられ、見事な出来ばえとなった城郭の中にある」との1590年発信のイエズス会年報に見ることができます。

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 平成 7 年度から開始した発掘調査では、二の丸跡から鳥伏間(とりぶすま)と呼ばれる金箔瓦や仏教の五輪塔を多量に使用した階段遺構、外来系の技術を駆使した石垣遺構などを検出しました。特に外来系の石垣遺構は「日本の他のどの城郭でも見られない」貴重な遺構の検出である。本丸の北側には空堀も良好な状態で残されています。

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 有馬氏が積極的に海外との交流を推進したため、当時の有馬にはヨーロッパなどから様々な文化が渡来し、当時の日本での国際交流の最先端地を形成していました。


 

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