有馬晴信と天下人、秀吉、家康

北有馬町を知ろう

キリシタン大名有馬晴信と秀吉、家康との密接な関係

少年使節もこの時代に生きた

有馬晴信と秀吉、家康

 16世紀末から17世紀初頭にかけて有馬領を治め有馬家第13代キリシタン大名「有馬晴信」は、わずか4万石の小大名でありながら、激動する戦国時代のときの覇者、豊臣秀吉や徳川家康と密接な関係を築いていました。この関係は日野江城跡の発掘調査の出土遺物やイエズス会年報の報告で明らかになりました。小西行長などの有力キリシタン大名の取次により巧みに時の為政者との関係を築いたいたのが有馬晴信でした。

 

有馬晴信と豊臣秀吉との関係

 国指定史跡「日野江城跡」の平成9年代3次発掘調査で城跡二の丸から「金箔瓦」が出土しました。金箔瓦は豊臣直営もしくは直系の大大名に使用を認められ、豊臣政権の中でも重要な位置を占める城郭にのみ使用を許された秀吉の権力の象徴でした。有馬氏は1587年の秀吉の九州平定により、島津氏の押さえとして重要視されたものと思われます。そのお墨付きにより日野江城に金箔瓦を使用できました。金箔瓦は大手口から二の丸に昇る階段遺構を登り切ったところにあった建物に使用されていたと思われ、その輝きは日野江城の繁栄の象徴であったと考えられます。

有馬晴信と徳川家康との関係

 有馬晴信と徳川家康との関係は豊臣秀吉より更に強固なものであったことが各資料により推定されます。家康はバテレン追放令発布後のキリシタン取り締まりの中、1601年には晴信の懇願により有馬に教会を建てることをあえて許可したことが、イエズス会年報に報告されています。また、御朱印船貿易では晴信に大名の中では第1号の朱印状を発行し海外交易の代理人としました。アジアに近い地の利とそれまでの海外貿易の実績を認めたものと考えられます。さらに有馬晴信は嫡男「直純」を家康の側近に送り込み、直純はその後、家康の曾孫の国姫と結婚することになります。結果として外様大名であったにもかかわらず有馬氏は、有馬から延岡(宮崎県)、丸岡(福井県)への移封を経て幕末まで栄えることとなりました。

有馬晴信木像

 越前丸岡領は有馬氏が幕末まで納めた地である。福井県坂井郡丸岡町の台雲寺は有馬家の菩提寺であり、この寺に納められているのが有馬晴信(1564年〜1612年)の木像である。この木像は晴信を祭った青信公御礼社に納められていたものであり、さらに鳥帽子には十字架が刻まれていること、山梨県大和村の栖雲寺に保存されている掛け軸に極めて良く似ていること等から有馬晴信像と考えられている。有馬のセミナリヨ誘致、天正遣欧少年使節派遣などの偉業を成し遂げた日野江城主でキリシタン大名有馬晴信の唯一の木像である。

(有馬キリシタン遺産記念館にレプリカを展示中)

黄金の十字架を持つ虚空蔵菩薩像(こくぞうぼさつぞう)

 山梨県東山梨郡大和村は慶長17年(1612年)、日野江城主「有馬晴信」が岡本大八事件により失脚し、終焉の地となった場所である。大和村の臨済宗建長寺派天目山栖雲寺所蔵の虚空蔵菩薩像(こくぞうぼさつぞう)は有馬修理大夫晴信のものと言われており、最近になり発見されたものである。画像の胸には十字架が燦然と描かれてあり、さらに肩、膝の4カ所の少年たちは「天正遣欧少年使節」を描いたものとも考えられている。この画像は徳川幕府のキリシタン禁教令の厳しい詮索を免れてきたものであり、極めて意義深いものがある。

(有馬キリシタン遺産記念館にレプリカを展示中)

 


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